東京ボード工業株式会社

東京ボード工業株式会社は、昭和22年に合板メーカーとして創業しました。幾度か会社合併が行われましたが、昭和59年の4社合併により新木場へ移転し、パーティクルボードの生産を開始したボードメーカーのパイオニア企業です。

移転当時、新木場には多くの製材所があり、そこから発生する副産物を原材料としていましたが、製材所が少なくなり、原材料の確保が困難になってきて、「もったいない」と着目したのが、建設現場などで発生する木質廃棄物です。これらを回収し、日本で初めて木質系廃棄物を100%使用したパーティクルボードの製造をスタートしました。
現在では、マンション建設現場にパーティクルボードを納め、同時に木質廃棄物を回収し、それをパーティクルボードに再生させ、また建築現場へ戻すという、資源循環の輪(リサイクリング)を構築するに至りました。
木々に永遠の命を与え、「リサイクリングで地球環境の未来を創る」。それが東京ボード工業の経営理念となっています。

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東京ボード工業では、木材のマテリアルリサイクルを実践しております。現在、木材のリサイクルで主流となっているのが、「サーマルリサイクル」と「マテリアルリサイクル」です。「マテリアルリサイクル」時と「サーマルリサイクル」時の違いは、以下の図をご参照ください。
サーマルリサイクルでは、樹木が光合成により長い年月をかけて吸収したCO2を焼却時に一瞬で放出してしまいます。一方マテリアルリサイクルは焼却を行わないので、大気中にCO2を放出することがありません。すなわち「炭素固定」が出来るのです。東京ボード工業では、パーティクルボード「E・V・Aボード」の生産を続けることにより、木質廃棄物をマテリアルリサイクルし、役目を終えた木々たちを私たちの生活の場に蘇らせます。
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東京ボード工業は、子会社のティー・ビー・ロジスティックス㈱にて東京・神奈川・千葉・埼玉を中心とした関東近県から発生する廃木材を回収し、一般廃棄物処理及び産業廃棄物処理の許可を受け、パーティクルボードを製造しています。
廃木材には建設業から出る型枠・新築・解体材や物流・倉庫業から出るパレット・梱包材、森林にある生木(枝葉・幹・根)、震災などによる災害廃棄物が含まれます。
その廃木材を、細かく砕いて処理(チップ化)し、図のような工程を経て、パーティクルボードを製造しております。
東京ボード工業が生産したパーティクルボードは、主にマンションの床やオフィスの床に使われております。
マンションではパーティクルボードの上にフローリングが敷かれていたり、オフィスではパーティクルボードの上にタイルカーペットが敷かれています。
基本的には表面に出てこない恥ずかしがり屋の製品ですね。
木質系廃棄物がありましたら、是非東京ボード工業株式会社までお知らせください。
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株式会社コトブキ

㈱コトブキは1916(大正5)年に「壽(ことぶき)商店」として創業した、今年で100年目を迎えるストリートファニチュアの老舗メーカーです。
皆さんも色々な場面でコトブキの製品にお世話になっていると思います。

東京オリンピックや新幹線の関連施設、又大阪万国博覧会に製品を納めています。
東京、大阪、名古屋の各ドームにもシートを納品しており、「イスと言えばコトブキ」というイメージを確立させ、そこからさらに屋外のベンチ等のストリートファニチュアや遊具、サインへと広がり、現在では屋外公共家具のメーカーとなっています。

創業者の深澤幸也氏は、東京数寄屋橋で、在留外国人向けに敷物、じゅうたんの販売を始めました。やがて敷物と家具をセットで販売するようになり、幸也氏の狙い通り、日本人の生活は西洋化し、洋式家具は一気に広まっていきます。更に公共用ホール向けに連結椅子を開発し、東京帝国大学安田講堂へ納入します。さらに6年の歳月をかけ、FK式単脚回転イスが誕生します。FKとは深沢幸也の頭文字から取っています。戦後になり、FRP製品の開発に着手。1964(昭和39)年の東京オリンピック関連施設及び新幹線関連施設にコトブキのFRP製品が多数納品されました。
次回は屋内から屋外公共家具へと事業を拡大していく歴史を紹介します。

1973(昭和48)年、社名を「コトブキ」と改称しました。その少し前、1970(昭和45)年に行われたEXPO70万国博覧会(大阪万博)において、コトブキは日本で初めて、屋外ベンチをデザインすることになり、万博会場の休息用ベンチとして、通称「万博ベンチ」が誕生し、このベンチが日本における屋外家具「ストリートファニチュア」の原点となりました。FRPのトップメーカーとなっていたコトブキは、新たに屋外公共施設の製品に活路を見出し、ストリート(街路)にファニチュア(家具)を置くという概念で「ストリートファニチュア」と名付けます。ストリートファニチュアは現在のコトブキに引き継がれます。
1975(昭和50)年、沖縄国際海洋博において、シェルターやベンチなどのストリートファニチュアを多数納品し、1981(昭和56)年には掲示板(サイン)の規格化をします。1983(昭和58)年、後にタウンスケープ関連の工場を栃木に建設し、1985(昭和60)年のEXPOつくば科学博でストリートファニチュアを多数納品します。
同じころ、世界で初めてのカプセルホテル「カプセルイン大阪」にカプセルベットを納入しました。
また遊具については、米国からの輸入販売を開始し、それまで日本になかったタイプの遊具を日本全国に販売し、多くの子供の心を引き付けています。

1995(平成7)年、阪神淡路大震災が起き、都市の防災に対しての機運が高まり、コトブキはいち早く防災ファニチュアを開発し、かまどベンチをはじめ、多くの製品を生み出しました。その後、東日本大震災、最近では熊本地震を経験し、近年、公園は市民の憩いの場から、災害時の市民の拠り所となる事が求められ、防災ファニチュアは益々需要が高まっています。
コトブキの経営理念
「パブリックスペースを賑やかにすることで人々を幸せにする」
それは、コトブキの使命とする社会貢献への原動力となるはずだ。